弔辞を読みました。

 その村の役員、特に責任者などをやっていると、その葬祭には必ず顔をだして

挨拶をしなければならないという、世間の常識でしょうが、厄介なことがあるんですね。

 特に、ご遺族の中には、やはり亡くなられた方の思い出を、お葬式の参列される

方に披露してほしいという方もいらっしゃるようですが、それを、述べる方(この場合は私なんですが)は、大変な作業なんです。弔辞の依頼をいただいてから発表までは

1日足らずの猶予しかないものですから、弔辞の文例をネットで探して、それをひな形にして書くという作業が、とても時間がかかりますし、徹夜に近い時間での作業で

書いた文書を見直して、言葉に出して読み方を練習するのも時間がかかるんです。

早口では、当然ダメですし、間のとり方やゆっくりと話して、ある程度抑揚をつけるなどの工夫をこらして練習するんですが、思い通りにいかないのが常で、特にお亡くなりになられた方とそんなに親しくしてわけもなく、ご高齢でお亡くなりなっていらっしゃる場合はなおのこと、ご遺族に話を聞いてそれから弔辞の内容を広げていくしかないんです。ネットの例文もご高齢で亡くなられた方の場合の弔辞が載ってなくなくて

死苦八苦して何とか文章らしくなって、それから弔辞に使ってはいけない言葉とかを

再確認してとやることがたくさんありすぎました。

 やっと出来上がった弔辞ですが、これは遺族の方に渡すものですから、きちんと清書したきれいな文書でなくてはいけないようで、それでもへたくそな字体は今更どうすることもなくお粗末な字でできうるだけ丁寧に書くことを肝に銘じて、出来上がりです。

本番前にそれこそ葬儀の場面を想像しながら何回も練習してやっとこさ本番です。

まあ、なくなられた方、ご遺族の方には失礼な言い方ですが、我ながら上手に

できました。

正月もはるか昔に終わった感

 約半年ぶりのブログ、忙しいとかそんな理由は全く当てはまらず、単に何を

書くべきか(ちょっと大げさですが)全く思い浮かばず、今日までやってきたという感

じかな。町内の役員を仰せつかっているのでその役割も適当にこなしつつ、家では

できる範囲で、料理、洗濯のお手伝い。好きな酒は、週に1回土曜日と決めてから

そんなに先に拘泥することもなく、夕食が終わったら、風呂に入ってそそくさと

ユーチューブ鑑賞。時間が来たらいや眠くなったら寝るという非常に人の本能に帰ったような生活の日々。

 そんなこんなの日々に、昨年の年末から、娘一家が孫を連れて里帰り。孫はまだ

1歳と9か月。言葉はそれとなく言語らしきものを発しているが、こちらがそれとなく理解するしかない。口は未熟でも(いや、年相応か)、体は、動く、動くこの辺の言葉で言うなら、「マメ」にあちこち家の中を走り回る。外に出したら、親の(娘夫婦)の

手を振り切って走り回り、公園では雨上がりの砂場で寝転んで遊びまくる。元気いっぱいの孫。これくらいから、4歳ぐらいまでがまあ一番かわいい年齢かも。その後は

生意気な口を吐きまくること必至。なぜなら、娘の子供だからです。

 今年は、久しぶりに長男も帰ってきて、珍しく家族そろってのお正月。飲み食いしたらいつの通りの、テレビを見ながら、孫と追いかけこっこ。そんな、賑わいも

2日、3日でもとに戻り、静かな我が家に。でも、うちの奥さん、子供たちが帰ったとたん、ダウン。ストレスからの過労でした。お疲れさまです。

 1月ももう半ばをとうに過ぎ、正月の賑わいもとうの昔のような感がするけど

あと、11か月したらまた、正月がやってくる。

 

 

 

家庭菜園 サツマイモ全滅

 5月ごろサツマイモの苗を二畝に20本ほど植えました。サツマイモほど素人にはうってつけの家庭菜園の野菜はないんですが、見事に期待を裏切られ、できた芋は大きさ5センチほどのイノシシの餌にもならないものが5個土の中から出てきました。

 サツマイモは今回で2回目の挑戦でしたが、初回はうまくいって出来栄えも上々でした。今回は無残な結果でした。原因は夏の雑草の多さとそれをほったらかしにしていた

私の管理も悪かったんです。苗を植えるときは雑草が生えないようにマルチシートに穴をあけて行ったんですが、その穴が大きすぎたのが原因で穴からイモの蔓と同じくらい雑草が生えてきてしまいました。雑草だけ慎重に取り除く作業をすればよかったんですが、その作業もせず雑草と一緒にイモの蔓と葉も切ってしまう始末。こんな初歩的なミスというかNG作業をすれば当然イモの生育はよくならず結果全滅となってしまいました。今年の暑さで雑草のはびこる勢いはすごくて、いいわけですが、とても細かく作業をする気力も失せてしまったというのが正直なところです。

 私の畑の広さは約7坪くらい(畳の広さで約14畳)で、イノシシ対策で四方に柵をしいて防御をしているんですがその防御策は、金網を以前張っていたところに知り合いに

もらった木製のパレットで囲んで侵入を防いでいます。おかげさまで金網だけの時は4回ほどイノシシの被害にあったのが今は被害がありません。でも、金網とパレットの間からセイタカアワダチソウ、茅、ブルーベリー等などの雑草が生い茂ってきてこれを

除去するのも一苦労。結局は雑草たちの除去は諦めました。きりがないから。

今も、畑の柵の周りは生い茂ったままで、冬が来て枯れてくれるのを待つのみです。

 これから、何を育てていこうか思案中なんですが、とりあえず畑の土を耕運機で

起こして植えられるようにならしてます。菜園をやる前は、自給自足生活だと意気込んでいましたが、まだまだ一人前には程遠い私目でございます。

 

今日も、力仕事お疲れさまでした。

 なかなか、土木作業には慣れてない私にとって、力仕事と建設に詳しくないとなかなか難しい仕事をさせられ、いや、させていただきましたが慣れない仕事で右往左往

の一日でした。田舎では、農業用の水は命綱。ましてやその水を流す管が割れて水が噴き出すなんてことが起きるとこれは農家さんにとって死活問題で一大事なんです。

 まずは噴き出して居るところの管を見つけるためにユンボという重機で掘削作業をやってもらい、管の破損部分を見つけたら、必要部材を用意して、破損した部分の管を

切断して新しい管を接続するんですが、私のようなど素人では、どんな部材を用意して

どのように接続するのか皆目見当がつかないんですが、でも、田舎にはこういうのが達者な方がいらっしゃるんで大助かりです。でも、結構年配の方で、かつ職人肌の方ですので怒らせないように気を使いながら作業をお願いするしかありません。重機を上手に扱いながら掘削して上手に管と管を接続してもらいました。でも、この接続だけで終わりではありません。水をいったんためる溜めますというのがあるんですが、今まで

あったそのためますを、管を接続するためにやむなく壊してしまったので新しく補強しながら作り直しをする必要が出てきたんです。いわゆる型枠を作ってそこにコンクリを流し込んでコンクリの枠でできた、溜めますを再生させる作業です。何が大変かというと今まであった溜めますと同じような寸法で再生させるために縦と横と高さの寸法を測って、板を電動のこぎりで切って、ビスで打ち込んで等々。この作業だけで大変な労力を割いていただきました。私を除いて皆さん(三人の方)熟練の方々ばかり、あとは

生コンを作って流し込むだけ迄やっていただきました。いやはや、助かりました。私は農家ではないので直接に田んぼ関係で影響を受けることはないんですが、私の周りの農家の人たちにとっては重要なことでして、3日かけてここまでやっていただいて感謝です。明日は生コンを生成して流し込む作業に入ります。この生コンの生成にもひと手間

掛かりそうです。加減ということです。水加減、砂加減、セメント加減、砂利加減。

しかし、先ほどの皆さんは、ベテランで慣れたものだと思います。明日これが終わると

この現場の作業はほとんど終了と言っていいと思います。皆さん今日の力仕事お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします。

お仏飯と人間様どちらが大事?

 うちの嫁さん非常に信仰心の篤い人で、そこはまあ尊敬するんですが、しかし現実に

生きてる人間と仏壇の中にいらっしゃる方々と比較してどちらが大事かと考えるとき

それは今現在生きて生活してる人間だと思うんですが。

 ある日の朝、出来上がった炊飯器の中のご飯の件で少しもめまして、当日は嫁さんは

早番で弁当を作っていく予定になってまして、熱い出来立てのご飯を早くよそって

準備したかったらしく、いらいらしてまして。なぜかというと、仏様にあげるご飯

お仏飯をまだ私が準備してなくて、「早く準備してあげてくれ」と、のたまいまして

私「なんで?」嫁「仏様のご飯が一番先でしょ」私「はああ?、別にそんなこと、順番にこだわる必要はないだろう?」と順番でもめました。嫁さんはついに怒って昨日の残りのご飯をチンして詰めてましたけど。おこるぐらいなら、自分でお仏飯の準備しとけよと言いたいところをぐっとこらえて、仏壇にお仏飯を上げましたけど。ちょっと納得いかない私がおりまして、そもそも、なんでお仏飯が必要なのか?誰が食べるのか?

どう考えても、たとえ差し上げるにしても別に順番にこだわる必要がある?などなど

疑問がふつふつとわいてまいりまして、さっそく、ググってみましたら、順番にはこだわる必要はないような、ただ、仏様(浄土真宗本願寺派では阿弥陀如来様)やご先祖様に感謝の気持ちを表わすために行う一日の始まりのためのルーティーンのようなものかと勝手に解釈しました。嫁さん曰く「仏様はご飯の湯気が大好きだから、できたてを

あげるのだ」と言ってますけど、調べてみたら、「お線香の煙がご飯の代わり」などと

説明してあるものもあり諸説あるようです。私は、順番にもこだわりませんし、イミテーションでもいいと思っているほうなんです。実際、供花は造花、供物はイミテーション、でおまいりしています。神棚の榊も造花です。でも、お参りは毎日欠かさずやってますし、要は感謝の気持ちがあれば、形にこだわる必要はないと思いますけどね。しかし、お盆前と、お正月前はきちんとお飾りしてます。イミテーションでないお供えものです。

弔辞を読ませていただきました。

 何十年ぶりかに弔辞を読ませていただきました。前回は同級生への弔辞でいろんな

例文もあり、文を作るのにそんなに苦労しなかった記憶があるんですが、今回は正直

困りました。亡くなられた方がご高齢で、しかもご家族の方も故人の履歴をほとんど

忘れていらっしゃること。どのように故人の思い出を紡いで文に起こせばいいのか

なかなか難しいところでした。どなたもそうでしょうが、冠婚葬祭の文章ほど

悩むものはありませんよね。ネットで例文を検索したり、冠婚葬祭の本で調べたりと

するのがほとんどだと思うんですが、私も、今回の件では、例文頼みでしたが、

ちょうど、故人の今までの経歴にあうような例文がなく、自分で考え考え作成するのが

やっとでした。字数で約450文字。一度試しに音読してみましたが、1分も持ちません

嫁さんの前で読んでみると、「読むのが早い、もっとゆっくり読んだら」とご指摘を

頂戴する始末。今回は彼女の指摘も当たっており、ことは急を要しますので、(明日が

葬儀という前日です)素直に従って、とにかく、ゆっくり、ゆっくりでどうにか2分弱

までこぎつけました。450文字を2分ぐらいで読むのも大変な技術を要します。本番で

緊張しすぎると、どうしても早口になり1分も持たなくなりそうな不安もあります。

最後は自分自身の心の問題に行き着くところでしょうが、そこは何とかなるだろうと

自分で根拠のない自信を持ってやっていくしかないと腹を括りました。

 でも、難題がもう一つ、弔辞を文字として残して、ご遺族にお渡ししなければいけないことを忘れてました。私、自慢じゃないけど悪筆なんです。読めはするんですが丁寧に書こうとすればするほど、下手とわかりすぎるほど、幼稚な文字になってしまいます。そのうえ、弔辞は筆で書くのが常識と本やネットで紹介されていたんでさらに悩みの種が増えてしまいました。悪筆が筆文字が書けるはずがない。試しに弔辞専用の用紙に筆(この場合は筆ペン)で書いてみたんですが、本当の墨を使った筆でないからでしょうか、紙がにじんでしまって、とてもご遺族にお渡しできるようなものではない仕上がりになりそうです。そこで、葬儀社の職員の方に、弔辞の文章は筆で書かないと

絶対ダメなのかお尋ねすると、にこやかな顔で、お気持ちがこもっておられれば、どのような筆記具でも構いませんよとのことでした。安心しました。でも、下手なのは変わりませんので、ボールペンで自分なりに丁寧に書いてみました。完成までに、3回ほど書き直したんですが。それでも、自他ともに認めるくらい下手な字で仕上がりました。

 当日は、当然早起きして、何回か練習して、シュミレーションして臨みましたが、

緊張するかと思いきや、我ながらうまくできたようで、自己満足のうちに無事終わって

(遺族の方に大変失礼で大変不謹慎ですが)ホットしています。

お盆なのに3社参り

 8月13日は奥さんのおばさんの初盆で、電車に乗って初盆参り。

お寺は奥さんの菩提寺でもあるので結婚当初から奥さんのご先祖様にはお参りに

チョクチョク行ってました。3社参りの1社目の神社は、このお寺の目と鼻の先に

鎮座ましましていらっしゃいましたが、いつも素通りで神社の名前もいわれも

知らずじまいの状態でした。今回、お寺にお参りしてバスを待つ時間がありましたので

ふと、気になってお参りに行ってみました。この神社は、私の生まれ育った佐賀県

ゆかりのある神社でした。そうとも知らず、今の今まで、素通りしていたことをお詫び申し上げたい気持ちで?お参りしてきました。

 初盆のお参りには、別の目的もありました。まあこれが、本来の目的と言えば

仏さまに大変失礼になりますが、実は私が卒業して42年ぶりの大学の周辺を散策してその変わりようをこの目で見てみたいという気持ちがありまして、暑さにめげず行ってきました。様変わりは、交通手段から変化してました。地下鉄が大学のすぐ近くまで開通しており、バスですと、信号や車の混み具合ではスムーズに行けないところも簡単に

行けたところが、まずは驚きです。地下鉄の駅を出てしばらくすると、新しくできた

(移設した)正門が現れました。まさに、西日本では有数のマンモス大学と言われる

だけのものがありました。正門を横目に見ながら、南に下っていくと私が下宿していた

地域へと続きます。40年以上前の歴史の変化が、私の下宿していた周辺にもありました。その頃は、田んぼがあって何となくのどかさがまだありましたが、今では高速道路が走っており、周りはマンションや新しい現代風の家ばかり。「あのおばちゃんの家

この辺やったなあ」などと懐かしみながら、40年前を思い出していました。そこで、

思い出したのが神社。学生時代、空手の道場に通ってましたがその時、そこの道場主

の先生が、生徒を神社に集めて稽古をつけることがあったんです。神社はさすがに移転もせずそのまま残っているだろうと思い、昔を思い出いだしながら探してみたら、ありました。それも、立派になって。という表現は、神様に上から目線でしょうか?

私が学生の頃は、この神社は、鳥居もなく、ただ小さなお堂がだけがあって、周りが

ただ広かっただけの神社だったような気がします。私の記憶が間違っていれば申し訳ないですが、それが、今や鳥居もきちんと建てられ、拝殿も整備され、素晴らしい神社に

なっていました。新しく生まれ変わった神社にお参りしてきました。このお参りが

2社目です。

 目的は、卒業後42年ぶりに青春時代を懐かしむこと。その目的は達成されましたので

家族と約束した集合時間に間に合うように、帰りは地下鉄ではなくバスに乗っていきました。このバスも、このバスの行く景色も懐かしいものがありました。3年間同じ場所でアルバイトをして行きも帰りもこのバス、この風景でした。と、懐かしい風景や思い出に浸りすぎて、降りる予定のバス停を一駅通り過ぎてしまい、降りたバス停は、

有名な菅原道真公とゆかりの深い神社前のバス停、知らぬふりをして帰るのも大変失礼に当たると思いまして、3社目のお参りです。

 今年のお盆は、「弥永背振神社」「片江阿蘇神社」「水鏡天満宮」の神社の

3社参りも兼ねて、福大周辺の変わりように感動してと有意義な一日でした。